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原阿佐緒と「あけみの唄」

原阿佐緒は歌人としてまた人生などいろいろと話題になられたことでよく知られていますが、今日は原阿佐緒と「あけみの唄」との関係にしぼって考察させていただきました。内容はいろいろな資料に基づいています。(多少の差異はあるかもしれませんが)


映画の主演として
原阿佐緒は自伝小説である「佳人よ何処へ」を書き、それが映画化されたことがありました。昭和7年(1932年)6月1日に浅草・常盤座と新宿の帝国館で封切られました。資料によれば久米正雄の紹介で、彼女の半生を描いたような映画でした。映画は本人主演で、相手役は森山保(当時、大映所属)、脇役は水原洋一、他に椿三四郎、若草美智子、鈴村京子さんたちでした。監督は福西ジョウジ(福西穣治)でした。映画前にはマスコミで騒がれましたが、上映後は客足が悪く、結局このプロダクションは解散してしまいました。
 当時の歌詞カード

作詩と作曲者への依頼

とはいえ、阿佐緒はこの映画のために主題歌「佳人よ何処へ」と中の唄(挿入歌)である「あけみの唄」を作詩し、その詩稿を持って、コロムビア文芸部を訪れました。彼女は幼児を背負って、古賀政男氏に面会したのでした。
そして、涙ながらに身の上話を語るのでした。古賀氏は背負ってきた阿佐緒の姿に心を打たれたのでした。幼いころ父を亡くし、自分の母が女手一つで自分や、兄弟たち、妹を育ててくれた日々を思いだしたのでした。赤子を抱えて、必死に生きようとする姿は、母の面影そのものでした。彼は後に「その晩、家に帰って作曲していると、母の姿が思い出されて、ギターの胴を涙で濡らしながら作曲した」と述懐しています。

 昭和7年発売のSPレコードのレーベル

映画はヒットしませんでしたが、この「あけみの唄」の曲は静かに長く親しまれていきました。このSP盤は昭和7年2月中旬に発売されました。(他の文献では昭和7年3月、ほかの資料では昭和7年5月とあります)
レコーディングは関種子さんでした。その時は風邪気味だったようですが、立派に歌われました。立派に歌うことができたのは、基礎がしっかりしたクラシック出身の声楽家だったからでしょう。ギター伴奏は古賀政男氏ご本人でした。
なお、キングレコードで有名な松島詩子さんの自伝「わが心の星・歌」の中で「柳井はるみ(松島詩子さんの別名)という名で、コロムビアが関種子さんが歌う予定の「あけみの歌」を自分に歌わせようとしたこと、しかしうまく歌うことができなかった」ことなどが述べられています。ではいつ2つの歌詞を古賀政男さんに持ち込んだのでしょうか。詳しくはよくわかりません。ただ昭和7年2〜3月にSPレコードが発売されたのであれば、その作成までの準備などの期間を考えれば、昭和6年の末ごろか、または昭和7年初めごろと推定することもできます。
次に阿佐緒が背負っていた幼児は誰だったのでしょうか。古賀氏は阿佐緒の子供だと思っていたのかもしれませんが、その時彼女は45歳前後でしたから、長男の千秋は25歳で、二男の保美は17歳になっており明らかに自分の子供ではなかったことがわかります。おそらく、だれかほかの人から一時的にお借りしてきたのかもしれません。それが演技だったのかそうではなかったのか?
また一般的には「あけみの唄」と呼ばれていますが、ただ写真の通りSP盤のレーベルでは「あけみの歌」とありますし、昭和8年8月に印刷された「古賀政男愛唱曲集2」の中でも「あけみの歌」とあります。しかし、上記の写真の通り歌詞カードの記載は「あけみの唄」とあります。

幻の2番の歌詞
ほとんど知られていないことですが、持ち込まれた「あけみの唄」の歌詞は4番までありました。実際歌われているのは1番、3番、4番です。当時の歌詞カードにもその通りになっています。しかし、前述の「古賀政男愛唱曲集2」昭和8年印刷の中には、その2番が記載されていました。下記の通りです。(現代仮名使いに直しています)

あけみかなしや 何処に行く

たまたま恋の まことを知り

抱いて死のかと 思うたが

ひとの幸ゆえ 泣いてすてたよ

追記;わたくしごと
私事ですが、私の父方の叔父は自己出版の本「おばんつあんと七ツ森」の中で昭和20年代(戦後)の思い出のところで次のように述べています。「趣味のない若者の人生は、何と侘しいことであろうと私は一人よがりになって、ギターにとりつかれたのである。・・・
月明かりに七ツ森の影を見ながら、門のところでギターに合わせて歌っていた時のことである。母は風呂上がりで涼をもとめてやってきた。それとは知らずに、あけみ悲しや いずこに行く・・・恋はすまじと 人が泣くものをー
ギターの初歩的な練習曲としては弾きやすく、ギター仲間のだれもが好んだ歌であった。」と記載されています。

また私の母方の祖母は明治22年生まれで、地元の吉岡小学校に通いました。私も聞いていたことですが「1、2年生のころに、原阿佐緒さんと同級生で、一緒に毬つきをして遊んだ」と言っていました。原阿佐緒は明治21年生まれですが、年譜によると「明治29年(九歳)・・・四月、・・・主として家庭的な教育を受けるため同郡吉岡尋常小学校に転校した。明治30年(10歳)、四月、・・・角田小学校に転校した。」と記録されていますので、明治29年の春から明治30年の三月ごろまでの1年間吉岡小学校に通ったことがわかります。このごろ祖母と一緒に毬つきなどして遊んだことでしょう。昭和36年7月になってから地元の宮床の白壁の家の庭に第二歌碑が建てられた時に、祖母は幼なじみ、同級生として招待され、記念写真を撮り、小さな単行本の「歌集」を記念としての贈呈を受けました。原阿佐緒記念館ができたころに、その玄関先にその時の記念写真が大きく飾られていました。その中に祖母の顔があったのを今でも覚えています。

それから、これも私事ですが、私の父方の祖母は大衡村の旧家の出なのですが、その旧家では何代か前の人が江戸時代に原家へ嫁いだという系図書きとしての記録が残っています。詳細は不明ですが、なんでも原幸力の母と言われています。

最後に下記にYou Tubeに載せた「あけみの唄」と「佳人よ何処へ」の曲へのリンクを貼りましたので、良かったらお聞きください。(なお佳人よ何処への歌詞は当時の歌詞カードなどからです。)

   You Tube 「あけみの唄」  「佳人よ何処へ」